さよなら、と言えた日のこと
帰国することを大家さんご夫婦に伝えたのは、穏やかな午後のことだった。
チャイムを押して、玄関のドアが開いた瞬間、いつものように温かく迎えてくれたふたり。でもその日は、伝えなければならないことがあった。
「来年、日本に帰ることになりました」
言葉にした瞬間、ずっと胸の奥にあったものが、少しだけ形になった気がした。
ドイツのノルトライン=ヴェストファーレン州の片田舎で暮らした約5年間。
最初は慣れないことばかりだった。言葉の壁、文化の違い、日曜日には何もかもが閉まってしまう静かな街。スーパーのレジは驚くほど速くて、もたついていると後ろの視線が刺さる。冬は長く、空は低く、灰色の日が何週間も続く。
それでも、気づけばそんな日々が自分たちの日常になっていた。
週末の朝、近くのパン屋でプレッツェル🥨を買う。アウトバーンを走って、ふと気になった小さな街へ出かける。クリスマスマーケットをはしごして、グリューワインで手を温める。妻と二人で歩いた、何でもない週末の街並み。
不便に感じたことは、たくさんあったはずだ。でも今となっては、その一つひとつまで愛おしい。
大家さんご夫婦は、近すぎない距離感で、いつも私たちのそばにいてくれた。
困ったときには親身になって助けてくれて、ときには家族のような温かさを感じる存在だった。言葉が通じなくても、気持ちは伝わった。そういう不思議な安心感があった。
帰国の報告を聞いたとき、ご夫婦は少し驚いた表情を見せた。そして、寂しそうに微笑んだ。
別れ際、大家さんの方からそっとハグをしてくれた。
その温かさを感じた瞬間——ああ、この生活は本当に終わるのだと、初めて実感した。
帰国が楽しみな気持ちも、もちろんあった。
懐かしい友人に会える。日本の食べ物が恋しかった。慣れ親しんだ言葉で、気を張らずに暮らせる日々が待っていた。
それと同じくらい、ドイツ生活の日々を置いていく寂しさがあった。
湿気のない夏の空気。21時を過ぎても空が明るい、あの長い夕暮れ。冬の冷たい風と、石畳に灯るマーケットの光。
便利ではなかった。でも、不便さも含めて愛おしかった。
このブログは、そんなドイツ駐在時代の記憶を、少しずつ書き残していく場所です。
旅の記録、現地での暮らし、今だから笑って話せるエピソード。そして、これからドイツやヨーロッパへ旅立つ方の参考になるような情報も、あわせてお届けできればと思っています。
あの頃を懐かしみながら読んでいただけたら、とても嬉しいです。
MERC JAPAN

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